岡村製油の原点は「河内もめん」だった【前篇】

綿実から始まった搾油事業が、時代と共にどのように変化してきたのか。普段何気なく使っている食用油の背景にある歴史に思いを巡らせる機会は少ないかもしれません。
そこで、この記事では、岡村製油の創業から現在に至るまでのストーリーを、原料である綿実(めんじつ:綿の種)に焦点を当てて振り返ります。

日本における木綿の伝来と栽培の広がり

綿の種が最初に日本に伝来したのは、799年ごろ。場所は三河国(現在の愛知県東部)とされています。
この時は気候の温暖な九州地方で栽培されますが、残念ながら長続きしませんでした。
それから約700年の時を経て、1492年ごろに再び中国から木綿とともに種子が持ち込まれます。それまでの麻や絹に比べて、わたを織った木綿の丈夫さや手入れの簡単さ。さらに、暖かさ、肌触りの良さなどから、多くの人々に受け入れられ、わたの需要は急速に高まっていきました。
こうして、日本における綿の栽培は着実に根付いていきました。

江戸時代における綿の栽培の隆盛

江戸時代に入ると、木綿は庶民の衣料として広く普及し、その需要に応えるように全国各地で綿の栽培が行われるようになりました。

江戸時代に入ると、木綿は庶民の衣料として広く普及し、その需要に応えるように全国各地で綿の栽培が行われるようになりました。
特に今日、岡村製油の位置する大阪府柏原市の近隣地域では、江戸時代中頃から栽培が盛んになるとともに糸に紡いで布にする織物産業が起こり、特産品「河内木綿」を生み出しました。
一方で、綿の栽培の拡大に伴い、副産物である綿実の活用も進みました。

綿の実から搾った油、いわゆる綿実油も、この頃から徐々に普及していきました。
元々は、灯明油でしたが、製法に改良が加えられて食用油としての利用が広まり、人々の生活に欠かせないものとなっていきました。こうして河内木綿の生産地では、綿の栽培と並行して綿実油の生産も行われるようになり、地域の重要な産業の一つとして発展していきました。

岡村製油の搾油事業の始まり

岡村製油の創業は明治25年(1892年)です。
当時、日本では綿の栽培はすでにピークを過ぎていましたが、繊維を取り除いた後の種子(綿実)は引取手も多くはなく、原料の入手に困ることはなかったようです。
そして綿実油の需要も菜種油などの他の食用油とともに増えつつありました。

創業当初の岡村製油では、水車を動力源として石臼を回し、綿実を挽き割り、核(殻の中にある高油分の部位)の粉砕もおこなうというように自然の力を巧みに利用した製法を採用していました。
その後、時代と共に技術は進歩しましたが、原料へのこだわりと品質を重視する姿勢は今も変わっていません。

綿実油事業の始まりは、日本の食文化の変遷と共に歩んできた岡村製油の長い歴史の第一歩だったのです。

後編では、日本の綿栽培・食文化の変遷と共に歩んだ岡村製油の今について紹介します。